投稿者「榎田基明」のアーカイブ

第39回全国町並みゼミ(その3)

榎田基明

町並みゼミ最終日は、全体会で分科会報告と総括討議、大会宣言、次回開催地への引き継ぎが行われました。来年の第40回大会は、1973年、妻籠(長野)、今井町(奈良)とともに町並み保存連盟の結成を呼びかけた有松(愛知)です。

写真:ステージで次回開催のあいさつをする有松のメンバー

ステージで次回開催のあいさつをする有松のメンバー

写真:開催地に引き継がれる全国町並み保存連盟の旗

開催地に引き継がれる全国町並み保存連盟の旗

大会終了後は、いくつかのオプショナルツアーが組まれています。大会中に行けなかった前沢集落のツアーに参加しました。

南会津町は、10年前、田島町、舘岩村、印南村、南郷村が合併した町で、前沢集落は旧舘岩村にあります。明治40年の大火で全戸焼失後に一斉に新築したため、統一した景観となり、現在23戸のうち10戸の曲家が残されています。

写真:前沢集落

前沢集落

大内宿と違い集落の外の国道沿いにある蕎麦屋と集落内の曲家資料館以外は、お店などがなく、生活をしている農家ばかりの生きた集落です。十数年前、初めて行ったのは重要伝統的建造物群保存地区になる前で、駐車場や蕎麦屋、資料館などはなく、集落の入口に適当に車を駐めて集落を見させていただきました。

写真:集落内の曲家資料館

集落内の曲家資料館

写真:茅葺き置き屋根の土蔵

茅葺き置き屋根の土蔵(会津の土蔵は置き屋根が多いようです)

集落の生活用水には西瓜が冷えていました。

写真:生活用水に冷えた西瓜

私たちはよく冷えた「南郷トマト」をいただきました。南郷トマトは旧南郷村で栽培が始まり、現在は南会津町、下郷町、只見町などで栽培されています。品種は桃太郎ですが、他地域のものとは一味も二味も違います。毎年のように取り寄せていますが、8月頃、大丸京都店に並ぶことがあります。

写真:木桶によく冷えた「南郷トマト」とミニトマト「アイコ」

木桶によく冷えた「南郷トマト」とミニトマト「アイコ」

帰り道に寄った舘岩物産館にこんな絵が飾られていました。豊かな恵みの中で楽しそうな子どもたち。会津の未来はこうなってほしい。

写真:舘岩物産館に飾られた絵

第39回全国町並みゼミ(その2)

榎田基明

町並みゼミ2日目は5つの分科会に分かれます。会津田島を会場にした第5分科会に参加しました。

会津田島のまちの前に、車で20分ほど山中に入ったところにある奥会津博物館の見学です。民俗資料の展示の他、野外に南会津の古民家が5棟ほど移築・展示されています。どの建物も維持のため、地域の女性たちが毎日、囲炉裏に火を入れているそうです。

旧山王茶屋は会津津と下野の国境、山王峠にあった茶屋本陣を移築したもので、来館者のための古民家レストランとして使われています。

写真:旧山王茶屋

旧山王茶屋

木地師が山中に留まって住まい仕事をするための木地小屋が復元されています。この建物は屋根も壁も茅ですが、実際には笹の葉で作られることが多かったそうです。

写真:木地小屋

木地小屋

江戸中期の旧杉原家住宅は昭和40年代まで染屋として使われていました。

写真:旧杉原家住宅

旧杉原家住宅

内部には現役の藍甕があり、藍染めの体験ができます。藍甕には熟成度合いがあるそうです。最も熟成=発酵が進んだ藍甕を開けてくれましたが、とても近づけるものではありませんでした。ましてそこで作業をするとなると相当慣れていないとできないので、体験には発酵が余り進んでいない藍甕を使うそうです。

写真:旧杉原家住宅の藍甕(12個もあります)

旧杉原家住宅の藍甕(12個もあります)

次は会津田島のまち歩きです。田島は幾度となく通っていますが、父の仕事の関係で法務局に寄ったぐらいでまちのなかを歩いたことがなかったので、こんなに色々あるのかと…会津西街道の重要な宿場で幕府直轄の“天領御蔵入”だったので当然なのですが。

まちの背後、城山の山麓に旧南会津郡役所があります。1885(明治18)年建築の、洋風木造2階建てです。同時期にこのような庁舎が県内十数カ所に建てられたそうですが、その中でも北会津郡役所に次ぐ規模で、保存状態も非常によいとのことです。1970年、写真左側の田島合同庁舎を新築する際に曳家し、90度向きを変えて現在の場所に復元されました。

写真:旧南会津郡役所

旧南会津郡役所

建物も素晴らしいですが、ガイドしてくれるおばさんの勢いと魅力に圧倒されてしまいました。この方に会うだけでも行く値打ちがあります。町並みや建築の魅力はハードだけでなく、そこに関わっている方の個性が加わることでさらに高まることをあらためて感じました。

次は田島の中心を通る会津西街道に面した昭和9年創業の「旅館和泉屋」です。

写真:和泉屋旅館の看板

和泉屋旅館の看板

さまざまな材を使い凝った意匠の宴会場。思わず天井を見上げているのは講師の藻谷浩介さん。朝、奥会津博物館まで車でお送りしたのですが、この日は広島カープの優勝が決まる日で、熱烈な広島ファンの藻谷さんと野球の話しで盛り上がって道を間違え遅刻…ご迷惑をおかけしました。

写真:和泉屋旅館の宴会場

和泉屋旅館の宴会場

和室の意匠も非常に手が込んでいます。

写真:付書院の繊細で上品な障子の組子と欄間

付書院の繊細で上品な障子の組子と欄間

写真:欄間の優美な富士山

欄間の優美な富士山

戦後、進駐軍の指定旅館に使われ、洋風の応接室や客室などがあります。

写真:アメリカ軍関係者が食事をした部屋

アメリカ軍関係者が食事をした部屋

建築的にも歴史的にも見どころが一杯で泊まってみたい旅館です。

再びまちを歩くと石造の立派な建物がありました。栃木の大谷石を使っているので相当お金をかけたのではないでしょうか。お医者さんだったそうですが、今は使われていないとのこと。もったいない…

写真:大谷石造の元医院

大谷石造の元医院

会津田島には、京都、中の津島(愛知)とともに日本三大祇園祭のひとつ会津田島祇園祭があります。4つの大屋台(本屋台、中屋台、上屋台、西屋台)があり、7月22日~24日のお祭りが終わると解体していたそうですが、現在は組み立てたまま保管庫に収められています。宵祭には大屋台の舞台で子供歌舞伎を上演しながらまちを巡行します。

写真:会津祇園祭の中屋台

会津祇園祭の中屋台

和泉屋鮮魚店は、古くさい店構えに惹かれて撮りました。後で聞くと私が好きな「にしんの山椒漬け」が美味しいとのことで、翌日、買って帰りました。「にしんの山椒漬け」は会津の郷土料理で身欠きにしんを山椒の葉と実がたっぷり入った醤油に漬け込んだ保存食です。にしんの生臭さが残るのが普通ですが、和泉屋のものは下ごしらえが違うのかまったく臭みがありませんでした。

写真:会津田島の和泉屋鮮魚店

会津田島の和泉屋鮮魚店

まち歩きのゴールは田出宇賀神社です。会津田島祇園祭はこの神社と熊野神社のお祭りです。会津らしい姿の山々が神社の背後に連なっています。穏やかな山形が木々に覆われるてさらに柔らかく見えるのが会津の山々です。

写真:田出宇賀神社の鳥居と会津の山々

田出宇賀神社の鳥居と会津の山々

午後は室内での分科会です。はじめに藻谷浩介さんによる「南会津の存続を考える」という講演。

写真:藻谷浩介さんの講演

藻谷浩介さんの講演

全国的に人口減少と高齢化が進んでいるが、実数で見ると最も深刻なのは東京であり、高齢化に対応するためこれから福祉に膨大な費用がかかってくる。地方都市や山間部などは、高齢化が進むといっても実数が少ないので財政負担はわずかである。地域内で人やお金が回るようにすれば消滅するようなことはない。地域の個性を魅力に感じる人びとも増えている。地産地消ではなく“地消地産(観光で人を呼び込む前に、自ら地元のものを消費し、なければつくってみよう)”から始めよう…と『里山資本主義』のエッセンスのようなお話しでした。

その後、3グループに分かれて、参加者の外からの目で見た田島の地域資源(ハードもソフトも)や魅力を地図にマークしながら、田島のまちづくりについてアイデアを出し合いました。

写真:最終日の全体会場に展示された第5分科会ワークショップのマップ

最終日の全体会場に展示された第5分科会ワークショップのマップ

第39回全国町並みゼミ(その1)

榎田基明

町並みゼミ第1日目は、開会前に前日の理事会参加者による会津若松の七日町界隈の見学に参加しました。

七日町は「なのかまち」とも「なぬかまち」とも呼ばれ、越後、米沢、下野方面への街道口として江戸時代には旅篭屋や商家が建ち並び、明治以降は商業の集積地として多くの銀行が出店したりしました。昭和後半にはかなり衰退していましたが、古い商家建築や銀行などの近代建築が多数残っていることから最近は訪れる人も増えているようです。確かに20~30年前は満田屋と漆器の白木屋ぐらいしか目につきませんでしたが、店舗がかなり増えていて、のぞきながら歩くのが楽しくなりました。

最初は、田楽で知られる「満田屋」です。夏に郷里の栃木へ帰省すると必ずといってよいほど行くお店です。餅、しんごろう餅(ご飯を半分つぶして餅のようにしたもの)、里芋、身欠きにしん、厚揚げ、こんにゃくなどを長さ30cmもある太めの竹串に差し、柚子みそ、甘みそ、じゅうねん(エゴマ)みそ、山椒みそなどをつけて囲炉裏で焼いて食べます。1本1本が大きいので4~5本でお腹一杯になります。

写真:満田屋の外観

満田屋の外観

次は「渋川問屋」です。元は商家だった建物を郷土料理の店としてリニューアルしています。店は大正時代、土蔵は明治時代の建築だそうです。土蔵に使われているのは蔵の街・喜多方の土蔵によく使われている三津谷煉瓦です。

写真:渋川問屋の外観

渋川問屋の外観

写真:渋川問屋の土蔵

渋川問屋の土蔵

銀行など洋風の建物も幾つかありますが、これは呉服屋さん。今はスポーツ用品店に使われています。

写真:洋風建築の元呉服屋さん

七日町の西端にある阿弥陀寺は慶長年間創建という古い歴史を持つ浄土宗のお寺です。本堂左に見える少し変わった建物は、鶴ヶ城(会津若松城)にあった「御三階」を廃城後に移築したものです。外観は3階ですが内部は4層になっています。城内では密議所や物見櫓に使われていたそうです。

写真:阿弥陀寺の本堂と御三階

途中、会津木綿のお店があったので、名刺入れを購入しました。柔らかい手触りで、ホッとします。

写真:会津木綿の名刺入れ

他にも魅力的な建物やお店もありましたが時間が来てしまい、下郷町の会場へ向かうことにしました。途中、町並みゼミ第2日目の会場のひとつになる大内宿で昼食にしました。

大内宿は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。今はほとんどの家が蕎麦屋や土産物屋になっていて、休みともなると観光客が多く、というか多すぎるような…地元で生活が成り立つようになったのはよいことですが、なんとなく違和感もあります。

私が初めて大内宿に行ったのは小学校5年生(1974年)の5月頃でした。今では一般的になった町並み保存も、わずかな地域で動きが始まったばかりの頃です。訪れる人もなくお店もなかったように記憶しています。その時、父が撮った写真が残っていましたので、同じ場所で撮影してみました。

写真:1974年の大内宿

1974年の大内宿

写真:2016年の大内宿

2016年の大内宿

1974年当時の写真をもう1枚。大内宿を背に立っている3人の中央が小学生の私です。

写真:大内宿を背にした記念写真

同じフィルムにこんな写真もありました。おそらく中山風穴の展望台から見た下郷町の農村風景です。中央を国鉄会津線の蒸気機関車が牽く貨物列車が走っています。

写真:会津下郷の農村を走る会津線の蒸気機関車が牽く貨物列車

さて、ようやく町並みゼミ開会です。初日は全体会で対談、開催地や各地からの報告、地域ブロック別の会議、交流会などです。

今年度、全国町並み保存連盟では、小樽運河の保存の先頭に立ち、全国の運動にも大きな影響を与えた故・峰山冨美さんの業績を顕彰する「峰山冨美賞」を創設しました。その1回目の受賞者に、広島県福山の鞆の浦の保存活動を続けている松居秀子さんが選ばれ授賞式が行われました。

写真:峰山冨美賞を受賞した松居秀子さんのあいさつ

峰山冨美賞を受賞した松居秀子さん

松居さんとは町並みゼミを通じて15年ほどのおつき合いになります。これといって何も支援はできていませんが、時々鞆の浦に行ってお話を聞かせてもらうことがあります。一見、おっとりしていますが、活動的で芯の強い方です。鞆の浦はここ2年ほど行っていないので来年は久しぶりに行こうと思います。

会津若松・飯盛山

榎田基明

福島県の下郷町・南会津町で開催される第39回全国町並みゼミへに参加するついでに会津若松に行きました。

会津は私の父方祖父の出身地です。私は祖父を全く知りませんが、会津には何か特別な思いがあります。

向かったのは会津若松市街地の北東にある飯盛山です。戊辰戦争の際、会津藩士子弟の少年達で組織された白虎隊が猪苗代湖畔に近い戸ノ口原の戦いで敗れて飯盛山まで撤退し、城下を眺めたところ城が炎上しているように見えたため(実際には城下が燃えている煙が立ちこめているだけで落城していなかった)、覚悟を決めて総勢20名が自刃したという場所です。戊辰戦争の悲劇のひとつとして会津の人びとは白虎隊に深い思いを抱くようで、お参りする人が絶えません。

写真:飯盛山にある白虎隊の墓地

飯盛山にある白虎隊の墓地

写真:白虎隊が逃れてきた戸ノ口原用水の洞門

白虎隊が逃れてきた戸ノ口原用水の洞門

写真:飯盛山の白虎隊自刃の地から見た会津若松の城下(中央の森が鶴ヶ城)

飯盛山の白虎隊自刃の地から見た会津若松の城下(中央の森が鶴ヶ城)

写真:白虎隊が出陣した飯盛山の麓にある滝沢本陣

白虎隊が出陣した飯盛山の麓にある滝沢本陣

飯盛山には「さざえ堂」という変わった建物があります。内部は二重らせん構造で、登りと下りで同じ通路を通らずに抜けられるようになっています。通路に沿って三十三観音などが置かれていて一巡りすれば巡礼したことになるというもので本来は「三匝堂(さんそうどう)」と呼ぶそうです。昔は出入り自由でしたが、重要文化財に指定され拝観料が必要になっていました。

写真:会津さざえ堂(円通三匝堂)

会津さざえ堂(円通三匝堂)

写真:会津さざえ堂の内部

会津さざえ堂の内部

飯盛山にはボランティアガイドがおられ、声をかけられて話をしていたところ、祖父と同郷の会津若松近くの旧門田村の方で話しが弾みました。

門田村の御山の名産に「みしらず柿」があります。大ぶりの渋柿を収穫した後、ヘタに焼酎を付けて箱詰めします。焼酎で渋が抜けるので開封日が決まっています。私の実家では毎年、買っていますが、ガイドの方によると今年は春先の霜で大不作だそうです。

写真:みしらず柿になる御山の柿(2010年11月撮影)

みしらず柿になる御山の柿(2010年11月撮影)

写真:会津盆地を見下ろす斜面に広がる御山の柿畑(2010年11月撮影)

会津盆地を見下ろす斜面に広がる御山の柿畑(2010年11月撮影)

本日の宿は会津若松の奥座敷・東山温泉です。

以前は会社などの宴会旅行で行くところというイメージでしたが、だいぶ雰囲気が変わっていました。選んだのは国の登録有形文化財第1号という老舗旅館「向瀧」。館内の様子は旅館のホームページ(mukaitaki.com)に詳しく載っています。

写真:向瀧の中庭

向瀧の中庭

会津藩からゆだねられたという老舗旅館ですが、意外にも若い女将さんの下、若いスタッフばかりでした。お客様にゆっくりとくつろいでもらいたいということから、適度に距離をおいた接客、郷土料理をベースにした懐石料理、少しぬめりのあるお湯と気持ちの良い宿でした。

国立西洋美術館と不忍池

榎田基明

久しぶりに東京に行きました。

まずは上野の国立西洋美術館です。

ル・コルビジェ設計で知られていますが、前庭のロダン作「カレーの市民」との組み合わせが好きで、美術館に入らなくても前庭だけ見に行くことが結構あります。この日も前庭だけでした。

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見上げると青空を背に立つ6人のカレー市民。

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この後、東京文化会館を一巡りし、いつもは余り行かない不忍池に向かいました。

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名残の睡蓮が大きな葉の下に隠れていました。

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ところが池の周囲の遊歩道にはスマホを持ったたくさんの人がウロウロ…数百人はいたでしょうか。

「ポケモンGO」のようです。みんな一心不乱にスマホを操作していましたが、しばらくすると一斉に同じ方向へ移動が始まり、最初は足早に歩いていたのがだんだん速度が上がっていき全速力で走る人まで。

居合わせた中高年の方達は何が起きたのかと眺めるばかり(私もその一人でした)。

どうやら上野動物園に近いあたりにポケモンが出現したようでした。まちなかでやっている人はよく見かけますが、集団で1カ所を目指しての大移動はちょっと異様な光景でした。